映像とフレーム

僕の好きな映像監督に奥山由之さんという方がいる。近年の代表作としては「米津玄師 - 感電 MV」や「星野源 - 創造 MV」などがあげられる。どれも話題になった曲なのでみんな奥山監督の作品を一度は見たことがあるのではないだろうか。

そんな奥山監督の最高すぎる映像が公開された


Mame Kurogouchi 2021 Fall Winter Collection

吸い込まれるようなトリックの映像だけど、ここで重要なのは「フレーム」という要素だ。鏡と枠を駆使して奥行きのある不思議な体験に仕上がっている。その立役者が「フレーム」である。奥山監督の作品はフレームを意識しているように僕は思っている。

 そんな監督の作品を紹介しながら映像とフレームについての所感をまとめてみた。

 

 

お別れの歌 に見る 縦動画のメディア特性


never young beach - お別れの歌 (official video)

奥山監督の作品と初めて出会った作品はこちら。小松菜奈の可愛さが光る作品だけれども、なぜここまで「可愛い」と感じるのか。それは「縦動画」という「フレーム」があるからだ。

スマートフォンの普及とSNSによる動画シェアの文化の醸成によって縦動画には特殊なメディア特性が付与された。それは「日常感」というものである。多くの人がスマホで撮影しシェアする縦動画は、まさに日常を切り取ったもので二人称的な映像が多い。この二人称視点が持つ「日常感」が「縦動画」とセットになり、そのメディア体験の習慣が人々に根付いた頃、この作品は発表された。

とはいえ近年ではその「日常感」という特性も薄れつつあるように思う。スマホの画面に特化した縦動画の広告などが増えてきたからだ。まあメディア装置が変わればコンテンツの様式が変わるのは当たり前かもしれないけれど、スマホで見るからと言って何でもかんでも縦にすればよいというものでもないと思う。アスペクト比は今や大切な表現の1要素になっているし、その選定は作品を左右しかねないものになった。

 

 

彗星 あるいは 平面的な物理フレーム

この映像を通して奥山監督の提示する「フレーム」は物理的なものになった。これは今までもあった手法だと思う。乃木坂のAll MV CollectionのCMでも使われていたし(乃木坂の方が後出だけど)、 僕も観客が入る現場の撮影案件ではお客さんのスマホ越しの画を撮ったりしてきた。ただ今後の布石としてこういう映像を作った、つまり「物理としてのフレーム」を示した、ということは非常に大事になっているのだと後から気がつくことになる。

 

 

感電 そして 空間的な物理フレーム


米津玄師 MV「感電」

この映像は公開されてから何度も見た。とてもとても好きだ。曲が良いというのもあるのだけど、撮影がすごく良い。この映像の貢献は「物理としてのフレーム」を空間に拡張したことである。ひとつまえに紹介した小沢健二「彗星」のMVはインターフォンのモニターという“平面的な”物理フレームであったが、感電のMVでは“空間的な”物理フレームとしての「メルセデス・ベンツ・W123」が出てくるのだ。

この映像内では視点が車内と車外を自在に行ったり来たりする。車内にある視点がズームしてフロントガラスのフレームが画角から外れると、視点は車外に移動しており、その後ベンツの扉を開けて車内に戻るというような演出がある。フレームと映像特性を生かした映像ならではの視覚体験であるけれど、その特性を主張しすぎることのない不思議で自然な体験になっている。

 

 

創造 する 形而上のフレームがもたらす調和


星野源 – 創造 (Official Video)

星野源の曲は毎回のように傑作である。そして創造もやはり傑作だった。さて、創造では監督が提示してきた「フレーム」が「物理的なもの」から「概念的なもの」に変化する。縦動画も概念的といえばそうであるので、あるいは戻ったと言っても良いかもしれないが。

このあたりから良さを明確に説明することができなくなってくる。頑張れば出来かもしれないけれど、この映像の醍醐味は、なんとなく気持ち良い視覚体験であると思うので下手な説明は野暮だと思う。フレームが溶け出して、あるいは調和して純粋な視覚体験としての楽しさがそこに際立ってくる。けれど単にテンポの良い綺麗な映像の連続ではなくて、そこには意味が見え隠れする。意味を視神経で感じることができるような映像。

 

 

映像とフレーム


Mame Kurogouchi 2021 Fall Winter Collection

そして冒頭で紹介したこの映像になる。ここでは「物理的なフレーム」に立ち戻ったのだけれども、彗星とも感電とも明確に違う点がある。それはフレームの多重構造である。正しく配置された鏡と完璧なモデルの動きによって、この映像のフレームの多重構造は不可思議な体験を視聴者に提供している。見てるうちに「鏡」が使われていることはすぐにわかるが、この鏡が何重にもなっていることがわかり、その鏡を通り抜けながら後退する視点に僕は混乱する。(そんなはずはないと思いながらも僕はカメラが鏡をすり抜けたように感じてしまった。)やがてレンズはその“秘密”を画角内に捉え、納得と感嘆を抱いた僕にすぐさま追い打ちをかけるように最後の演出がやってくるのだ。

「お別れの歌」で培ったスマホに特化した縦映像の技術と、「彗星」における平面的な物理フレームの明快さと、「感電」の空間的な物理フレームのもつ自在さと、「創造」の概念的なフレームを通して実現させた視覚的な調和をもって、この映像は単純な視覚的楽しさの極みのひとひらを僕に提供してくれた。